BORN FROM AMBITION
2024年に生誕75周年を迎えるオニツカタイガー。
はじまりは、戦後間もない1949年。
鬼塚喜八郎の「スポーツ競技には人生を変える力がある」というひたむきな想いからでした。
日本の青少年育成に貢献し、より良い未来を再建することを目的に、鬼塚株式会社を設立。技術力とコンフォートを追求し、革新的な競技シューズを世に送り出してきました。1977年には社名が変わり、ブランドは一時消滅します。
しかし、レトロブームに後押しされ、2002年にヨーロッパでファッションブランドとして復刻。アーカイブをアレンジしたヘリテージスタイルや、ハイエンドなモードスタイルを展開し、変革を続けています。
1951
タコから発想したシューズ
きっかけはタコ。8本足のあの食材には、食卓にのぼるだけではない運命が待ち受けていました。鬼塚喜八郎の夕食に出されたタコの酢の物が、オニツカタイガーの革新的なバスケットボールシューズの着想源になりました。タコの吸盤のようにくぼみの深いソールを搭載した1951年の「TIGER BASKETBALL SHOES」。グリップが強く、プレーヤーの速攻や急停止といったゲームには欠かせない動きを可能にしました。最初にこのシューズを履いた日本の高校生チームが、大会で優勝したこともうなずけます。
1960
ひらめきは風呂場から
ひらめきの瞬間は、入浴時に足の指先がふやけた時にやって来ました。まめのできる仕組みを大学の医学部教授から教わり、熱が原因でランナーの足にマメが発生することに気づいた鬼塚喜八郎は、マラソンシューズを開発するために、空気循環システム研究することになりました。孔を開けるという画期的な発想が最初に登場したのは1960年。「MAGIC RUNNER」は軽量で走りやすいだけでなく、優れた通気性も発揮しました。
1964
THE NEED FOR SPEED 速さを求めて
日本のイノベーションがその真価を発揮したのは、1964年の東京大会。この舞台で、ブランドを代表するモデル「RUNSPARK」がデビューを飾りました。アスリート向けに、オニツカで初めて固定式スパイクを採用したシューズです。スパイクの長さを4種類から選べる取り替え式も後に開発され、アスリートはさまざまなトラックに対応することができました。さまざまな靴の構造が試されたのもこのシリーズで、例えばやわらかいスポンジをかかと部に重ねたタイプは、着地した時に足へかかる衝撃を緩衝しやすいように設計されていました。
1966
THE BIRTH OF AN ICON アイコンの誕生
歴史に残る進化を遂げたのは1966年。この“オニツカタイガーストライプ” は、現在も変わらずオニツカタイガーとアシックスのシューズにあしらわれています。最初に登場したのは「LIMBER UP 革 BK」で、1968年のメキシコ大会に向けて誕生したデザインでした。
1969
AN ATHLETIC FORERUNNER スポーツシューズの最前線
国際競技大会で優秀なパフォーマンスを発揮したことで、オニツカタイガーは、日本の一流スポーツシューズメーカーのひとつとして、世界にその名を知らしめることになりました。しかし世界が強い関心を示すだけには留まりませんでした。ビル・バウワーマンをコーチに持つアメリカの中距離走者のフィル・ナイトは、MBAでスポーツシューズマーケティングを研究しており、その一環として、鬼塚喜八郎にオニツカタイガーの販売権の交渉を持ちかけました。フィル氏は、オニツカタイガーをアメリカで展開するためにブルーリボンスポーツ社を設立。これがのちにナイキとなる会社です。そして、ブルーリボンスポーツ社から依頼されて誕生したのが、「TIGER CORTEZ」です。
1978
現代のジョガースタイルを形に
"ジョギングのために開発されたシューズ「CALIFORNIA」。足のアーチを保ち、つま先をしっかりサポートできるように、インナーソールを足の形にフィットさせて、つま先に動く余裕を作りだしました。広く、丸みを帯びたかかと部分は着地時のバランスを取りやすくし、広くやや反り上がったつま先部分は、前進する動きをサポートします。 安全性を高めるために、CALIFORNIAのかかと部分にはリフレクターが付けられています。これにより、夜間や雨天時にも、ドライバーは離れた場所からでもランナーを視認することができるのです。"
創業当初から変わらない細部へのこだわりと、イノベーションを通し、
今後も唯一無二のブランドとして、オニツカタイガーは未来を創造していきます。